長谷川平蔵の石高と年収はいくら?大河ドラマ『べらぼう』で大金をを振りまく

べらぼう

長谷川平蔵は、NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」第3話に登場しましたね。

花の井(小芝風花)に心を奪われた長谷川平蔵が、紙花や寄付金(入銀)を大金を注ぎ込み、親の蓄積えを使い果たしてしまった姿が描かれました。

下心丸出しの長谷川平蔵。
花魁の言う通りにお金を出してしまう。

そんな、間抜けキャラの長谷川平蔵にクスっとさせられましたね。

ここでは、長谷川平蔵は、なぜそんなに大金があったのか、いったい何者なのかについて深堀していこうと思います。

長谷川平蔵とは誰なのか?実在していた?

日本の歴史上、長谷川平蔵はどんな人だったのでしょうか。

長谷川平蔵と徳川家康との関係

長谷川平蔵と徳川家康には直接的な関係はありません。
しかし、長谷川平蔵の先祖が徳川家康に仕えていたようです。

長谷川平蔵の先祖である長谷川正長は、もともと今川義元に仕えていました。

1560年の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に敗れ、今川家は没落します。
長谷川正長は徳川家康の家来となりました。

長谷川正長は、1575年の長篠の戦いで徳川・織田連合軍の一員として戦い、37歳で討ち死にしたとされています。

長谷川平蔵の先祖にあたる長谷川伊兵衛宣次は、この長谷川正長の次男でした。

長谷川家は、その後も代々徳川家に仕える旗本として続いていきました。

このように、長谷川平蔵と徳川家康には直接の関係はありませんが、平蔵の家系は徳川家に代々仕える旗本の家柄であり、その起源は家康の時代にまで遡ることができます。

長谷川平蔵の父と母

長谷川平蔵の父

長谷川宣雄の妾腹の子として生まれたとされています。父の宣雄は400石取りの旗本でした。
火付盗賊改役を務めており、江戸三大大火の一つである目黒行人坂の火災の放火犯人を捕らえた人物とされています。
通称は息子と同じく長谷川平蔵としていました。父を長谷川平蔵宣雄、息子を長谷川平蔵宣以として区別することがありますが、「長谷川平蔵」といえば息子を指すことがほとんどです。

長谷川平蔵の母

長谷川平蔵の母は長谷川家に出仕していた女中だったとされています。
平蔵が幼い頃に亡くなりました。一説によると、平蔵が1歳の時に病で亡くなったとも言われています。
しかし、長谷川平蔵の実母の死因については、歴史的な記録が少なく、多くが推測に基づいています。

長谷川平蔵(宣以)の誕生

1745年(延享2年)、400石取りの旗本である長谷川宣雄の長男として江戸・赤坂に生まれました。

幼名は銕三郎(てつさぶろう)と言われています。

長谷川平蔵は遊び人として有名!

長谷川平蔵は放蕩無頼(ほうとうぶらい)の素行不良の人物として知られていました。

 

「放蕩無頼」ほうとうぶらいとは?

放蕩(ほうとう):道徳規律を無視して勝手や気ままに振る舞うこと。
無頼(ぶらい):他人に頼らず、好き勝手に生きること。または無法者のような振る舞い。

自由奔放で規律を守らず、無茶苦茶な生活の様子を表します。

 

長谷川平蔵は、20代前半から遊郭通いを始めました。

NHK大河ドラマ「べらぼう」の設定では、1722年頃(長谷川平蔵が20代前半)に遊郭に通い始めたと推測されています。

当初は遊び慣れていない様子でしたが、やがて遊郭での遊びを覚えていきました。

遊郭通いにハマり、オシャレにお金を使いまくるなど、「江戸のチャラ男」と呼べるような生活を送っていました。

妻子がいながらも遊郭へ通いつめ、父の残した遺産を全て食い潰してしまったとされています。

長谷川平蔵が「本所の銕」と呼ばれるようになった理由

・「銕」は平蔵の幼名である「銕三郎」(てつさぶろう)に由来している。
・長谷川家が本所(現在の東京都墨田区)に移り住んだことから「本所の」という呼称が  いた。
・遊郭通いや浪費など、放蕩三昧の生活を送っていた。
・その素行の悪さから、周囲から恐れられる存在となり、「本所の銕」というあだ名で呼ばれるようになった。

長谷川家が本所に移ったのは平蔵が19歳頃とされていますが、その時点ですでに「本所の銕」と呼ばれていたことから、幼少の頃から不まじめな生活を送っていたと推測されます。

このように、長谷川平蔵の幼名、居住地、そして若い頃の放蕩生活が組み合わさって「本所の銕」というあだ名が生まれ、定着したと考えられます。

長谷川平蔵が遊郭で遊び回ったのはなぜか

長谷川平蔵は父の正室の子供ではなく、実母を亡くして父の家に引き取られました。

継母から冷遇されていた可能性が高く、冷たい家庭環境から逃げ出したい気持ちが、遊郭通いにつながったと考えられています。

それと同時に、父親への反抗心が、遊び人となった理由の一つと推測されています。

20代前半という年齢も、遊び人としての行動に影響を与えたかもしれません。

きっと、幼いころの母親に甘えたい気持ちを誰からの受け止めてもらえず、どこか寂しい気持ちを紛らわせるために、遊んでいたのかなと想像すると、ちょっと気の毒になりました。

鬼平犯科帳の主人公のモデルは長谷川平蔵

そんな、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の生活を送っていた長谷川平蔵ですが、28歳で父親が亡くなり家督を相続したことをきっかけに、遊び人生活から脱却し、後の「鬼平」として知られる人物へと成長していきました。

長谷川平蔵は42歳の時に、火付盗賊改方(ひつけどうぞくあらためかた)に任命され、その後「鬼平」という異名で呼ばれるようになります。

江戸時代は、火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博は重罪とされており、それを取り締まるのが、火付盗賊改方(ひつけどうぞくあらためかた)の役割でした。

長谷川平蔵はその長官(鬼の平蔵・鬼平)として恐れられていました。

鬼平犯科帳は、登場人物同士の信頼関係や鬼平の人情味、そして池波氏の奥深い人間観が共感を得て、現在でも幅広い世代にわたって根強い人気を誇っています。

長谷川平蔵の石高、年収はいくら?

遊郭遊びが好きで、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の長谷川平蔵ですが、遊郭で遊べるほどのお金持ちだったのでしょうか?

石高とは?

石高(こくだか)とは、土地の生産性を米の量で表した単位です。

土地の価値や生産力を統一的に表現する方法として、太閤検地以降、明治時代の地租改正まで約300年間使用されました。

石高は、大名・旗本の収入や知行の規模、軍役など諸役負担の基準、農民からの年貢徴収の基準として使われていました。

1石は約180リットル(約150キログラム)の米に相当します。

石高制の仕組みとして、「領地の規模は面積ではなく石高で表記する」、「米以外の農作物や海産物の生産量も米に換算する」とされていました。

米を基準とした統一的な価値尺度が確立され、徳川幕府の政治・経済システムの基盤となった「石高制」は、1873年(明治6年)の地租改正で金納制が導入され、廃止されました。

長谷川平蔵の石高は400石

長谷川平蔵の石高は、本来の家禄である400石に、役職に応じた加増が加わることで変動していました。

長谷川平蔵が火付盗賊改定役(長官)に就任した際には、役高が1500石に増え、60人扶持が付きました。これは、本来の家禄に加えて役職に伴う加増があったためです。

ただし、家の基本的な石高としては400石であり続けました。

石高、400石長谷川平蔵の収入はどのくらいなのか?

400石の旗本の収入は、以下のように推定されます。

1. 手取り収入:約160石
– 400石の40%が手取りとなるため、160石となります。

2. 金額換算:
– 1石を5万円として計算すると、約800万円
– 1石を10万円として計算すると、約1,600万円

3. より詳細な計算例:
– 1両を12万円として計算すると、160両で約1,920万円

ただし、これらの金額は時代や米相場によって大きく変動します。
また、旗本は家禄相応の使用人を雇う必要があり、実際の生活費はこれより少なくなります。

江戸後期になると、多くの武士が生活に困窮していたことも明らかになっています。したがって、400石の旗本の実質的な生活水準は、現代の中流家庭程度だったと推測されます。

長谷川平蔵の石高と年収についてのまとめ

長谷川平蔵の収入と生活について考察してみると、400石の旗本ではありましたが、江戸時代の武士の経済事情から考えると、武士には格式に応じた支出が必要であり、家禄だけで贅沢をするのは難しかったのではないでしょうか。

そのため、長谷川平蔵がどのようにして資金を工面していたのかは想像をかき立てられます。

江戸時代の武士は黙を踏まえて約格式を重んじ、質素倹を求められる、社会的な付き合いや贈答の習慣もありました。

当時の武士社会の厳しさや多様性が垣間見えますね。

孤独放蕩者の長谷川平蔵が、厳しい武士社会の中で、バランスを取った一人の人間と成長し、「鬼平」として名を馳せるほど職務には真剣に取り組んでいた生涯に、現代においても魅力的な人物として語り継がれているのではないでしょうか。

 

 

 

 

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大河ドラマが好きなアラフィフのブロガーです。
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