「桶伏せ」とは?大河ドラマ『べらぼう』蔦屋重三郎が受けた刑を解説!

べらぼう

大河ドラマ『べらぼう』第1回で蔦屋重三郎(横浜流星)が田沼意次に岡場所の警道を頼みに行ったことで、吉原に戻ると引手茶屋のオヤジさんたちから、殴る蹴るの暴行を受けたあと、大きい桶閉じ込められるという罰を受けていました。

桶に3日も閉じ込められた蔦屋重三郎は、なぜ生きていられたか、食事やトイレはどうしていたか気になりますね。

この吉原の私刑は桶伏せ(おけぶせ)と呼ばれていました。

この記事では、桶伏せの内容や理由、どうして廃止されたのかについて、わかりやすく説明します。

江戸時代の厳しい罰・桶伏せとは?

江戸時代、吉原遊郭で、「桶伏せ(おけぶせ)」という厳しい罰がありました。

桶伏せは、遊郭が始まったばかりの頃、短い間だけ行われていたと言われています。

桶伏せはどんな罰だったのか?

桶伏せは、主に遊郭でお金を払えない人に行われた罰でした。その内容は次の通りです。

風呂桶をかぶせる

体が入る大きな風呂桶を逆さにしてかぶせ、出られないようにしました。

桶には小さな窓が開いていましたが、罰を受けた人は恥ずかしい思いをさせられました。

道にさらす

風呂桶をかぶったまま、道で他の人にさらされます。

家族や友人がお金を持ってくるまで、この状態が続きます。

なかには数日間このまま過ごした人もいました。

最低限の食事だけ

食べ物は少しだけ与えられましたが、主におにぎりや漬物など簡単なものでした。

防寒具は与えられず、寒い時期には非常に辛かったでしょうね。

また、トイレにも行けず、その場で排泄をしなければなりませんでした。

なぜ桶伏せをする必要があったの?

遊郭で桶伏せが行われた理由は、以下の3つです。

お金を回収するため

遊郭で遊んだ後に支払いができない人からお金を回収するための方法でした。

家族や友人が代わりにお金を持ってくるように促す目的があったとされていますが、携帯電話がない時代、一人で行ったら、誰にも連絡できず出られなかったのか?どうしたのか?という疑問が残ります。

見せしめ

道でさらすことで、他の客に「お金を払わないとこうなる」という警告を与えました。

これを見た他の人たちは、支払いを怠らないように気をつけるようになったそうです。

遊郭の秩序を守るため

遊郭という場所では、お金のやり取りが非常に重要でした。

支払いを確実にさせることで、遊郭全体のルールと秩序を保つ狙いがありました。

桶伏せを受けたのはどんな人?

桶伏せの対象になったのは、次のような人たちです。

無銭飲食をした人

遊郭でご飯を食べたり遊女と遊んだりした後、支払いができなくなった人。

遊女と恋愛関係になった人

遊女と隠れて恋愛をしたり、遊郭のルールを破った人。

遊郭の規律を乱した人

吉原のルールや秩序を壊すような行動をした人も、この罰を受けました。

桶伏せがなくなった理由

桶伏せはその過酷さのため、次第に行われなくなりました。その理由は以下の通りです。

お客さんが減ったから

厳しすぎる罰は、お客さんに怖がられ、結果的に遊郭を利用しなくなる人が増えました。

それによって遊郭の収益が減るリスクが高まったのです。

他の方法が使われたから

桶伏せの代わりに、「行灯部屋」と呼ばれる薄暗い部屋に閉じ込める方法が採用されました。

また、借金の取り立てを専門とする人が家に訪問し、支払いを求める方法も一般的になりました。

これらは桶伏せよりも穏やかで、お客さんを失うリスクが少ない方法でした。

時代が変わったから

江戸時代の後半になると、社会全体で罰や秩序の維持に対する考え方が変わり、より穏やかで効率的な方法が求められるようになりました。

そのため、厳しい私刑である桶伏せは廃止されていきました。

他の地域ではどうだったのか?

実は、桶伏せのような罰は吉原だけでなく、他の地域でも行われていました。それぞれの地域で方法や目的が少しずつ違っていました。

伊予松山藩

吉原では遊興費を払えない人を対象にしていましたが、伊予松山藩では年貢(税金)を納められない農民が桶伏せのような罰を受けました。

経済的な背景は共通していますが、罰の適用範囲が異なります。

信州の遠山地方

信州では、悪者を大きな桶に閉じ込める罰が行われていました。

吉原のように人前でさらすのではなく、地域内の秩序を守るための罰でした。

これらの例から、桶伏せという罰が地域ごとに形を変えていたことがわかります。

同じ罰でも、その地域の事情や価値観に合わせて使われていたのです。

大河ドラマ『べらぼう』で蔦屋重三郎がうけた桶伏せ

こうやって桶伏せについて調べてみると大河ドラマ『べらぼう』での桶伏せは本来の意味合いとは違うかもしれません。

しかし、江戸時代の吉原の文化の歴史として桶伏せが行われていたということを知ることができたのではないでしょうか。

蔦屋重三郎が桶伏せにされたときも、桶の小窓から唐丸が「大丈夫か?」と声をかけてくれる人がいたり、ごはんを届ける人がいたり気にかけてくれる人がいました。

常連の客が桶伏せにされたときは、遊女がコソコソ様子を気にすることもあったりしたようです。

親切な人ばかりでなく、嫌がらせをする人も。

桶を蹴っていくひとや、桶の小窓からゴミを捨てる人もいました。

蔦屋重三郎は、田沼意次から「吉原に客が来る工夫をは何かしたのか?」と問いかけられたことで、桶伏せにされながらも、吉原を再建させるにはどうしたらよいのか必死に考えます。

そして、桶伏せを解かれたあとは、当時、吉原のガイドブックの役割をしていた「吉原細見」に注目するのでした。

「桶伏せ」についてのまとめ

桶伏せは、江戸時代の吉原遊郭で行われた厳しい罰の一つで、食事や排せつは桶の中でするしかありませんでした。

お金を払わない人への制裁として短期間使われましたが、その後は廃止されました。

各地方にも桶伏せという刑は存在しており、吉原の桶伏せとは、少し違う形で使われており、それぞれの地域の価値観やルールを知る手がかりにもなりますね。

 

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大河ドラマが好きなアラフィフのブロガーです。
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