「べらぼう」鳥山検校とは?花の井(5代目瀬川)を高額で身請けする財力

べらぼう

江戸時代、吉原で人気を誇った遊女・花の井(五代目瀬川)が高額で身請けされました。

この鳥山瀬川事件の発端となった鳥山検校とは、一体何者だったのか?

なぜ、鳥山検校(とりやまけんぎょう)は吉原一の花魁、五代目瀬川を身請けできるほどの財力があったのでしょうか。

ここでは、鳥山検校(とりやまけんぎょう)はどんな人物だったのか、みていこうと思います。

花の井(5代目瀬川)を身請けできる財力は?鳥山検校の正体

鳥山検校とは、いったい何者なのか。

鳥山検校(とりやまけんぎょう)の検校とは

鳥山検校の検校とは人物名はなく、官職の名称です。

元々は、鎌倉時代に荘園や寺社の監督職を指していました。896年に東寺の益信が石清水八幡宮の検校に任命されたのが初出とされています。

検校は、室町時代以降になると、盲人の中での最高位となりました。

検校の起源

中国では、検校は点検典校の意から、経籍(けいせき)を司る官名に用いられていました。

さて、日本は平安時代、仁明天皇の子である、人康(さねやす)親王が若くして失明しそのため、出家して山科でひっそりと暮らします。

人康(さねやす)新王は、山科で盲人を集め琵琶や詩歌を教えました。
人康(さねやす)新王の死後、そばに使えていた盲人に検校勾当(こうとう)の2官が与えられました。
これが日本で検校と呼ばれる盲官の始まりと言われています。

検校の仕事は?

盲官の検校には、専用の頭巾、衣服、杖などの所持が許されていました。
検校は剃髪し、正式な検校専用の服は僧侶に似ています。
盲目の法師らは、琵琶を弾きながら、平家物語を語り演奏する伝統芸能である平曲や筝、尺八、三味線の合奏3曲などの音楽芸能を独占していました。
また、それらの芸能だけでなく按摩(あんま)は鍼灸(しんきゅう)なども独占的な事業として認められていました。

鳥山検校の地位

江戸時代、鳥山検校をはじめとする盲人男性は、「当道座」という同業者組合に属していました。
鳥山検校は「当同座」呼ばれる盲人男性で組織された同業者組合の最高意についています。
江戸幕府はこの「当道座」公認しています。
当道座では検校を最高位に別当、勾当(こうとう)座頭の役職があり、その下に16階あり、またその下に73刻みと細分化されていました。
この階級を登っていくにはお金換金が必要で、最下から最上位の検校になるまでに、なんと719両もの大金が必要でした。
1両の価値は諸説ありますが、低く見積もる場合は、1両5万円です。
仮に5万で計算すると約3600万円が必要になります。

お金さえあれば検校になれてしまうという、お金で官位を買うことができるシステムなのですね。

ということからも、鳥山検校がお金持ちであったことが、わかります。

こうしたことから、「当道座」に属する盲人たちは、お金を必要とする事情があり、幕府は盲人による事業として、官金と呼ばれる金貸しをすることを認めていたようです。
この官金は高利貸しで知られ、かなりの利息を請求していました。
こうして鳥山検校は、この官金による金融事業で莫大な財力と権力を手にしていました。

鳥山検校は、莫大な財力を持っており、江戸幕府からの保護も受けながら、その権力を行使していたということがわかります。

盲人による高利貸しは官金貸し、座頭貸しなどと呼ばれ正式に認められていましたが、高利貸しと厳しい取り立てで有名でした。

鳥山検校の検校制度に特権を与えた徳川綱吉

元々ある検校制度にの高利の金貸し特権が追加されたのは、第5代将軍徳川綱の時代です。

生類憐みの令に便乗し優遇を受ける鳥山検校

徳川綱吉の政策といえば生類憐みの令が有名ですね。
生類憐みの令は、犬だけでなく生きとし生けるもの全てが対象なので、盲人に様々な特権を与えたのでしょう。
幕府は独占的な事業を認め公認するだけでなく、「当道座」には、税金も免除するなど他の座とは異なる保護的な政策を取りました。
「当道座」をかなり優遇していたと言えます。

徳川綱吉が鳥山検校を優遇した理由

徳川綱吉自身も障害を抱えていたという説があります。
徳川綱吉は、小人症だった⁉
この話の出どころは愛知県の三河大樹寺にある徳川家の位牌。徳川家康から徳川慶喜までの歴代将軍15人の位牌が設置されています。
この寺の位牌の高さは、各将軍の実際の身長と同じ高さに作られていると伝えられており、これによると綱吉の身長は124㎝と推測されます。
ちなみに徳川家康は159㎝、綱吉の父である家光は157cm、母は147cmなので極端に小さい印象を受けます。

現在は障害者が、差別されることなく暮らせるような法律も制定されていますが、江戸時代はまだそのような概念がなかったように思います。

そのような時代に、綱吉は儒学や仏教の教えによる障害者にも優しい社会をめざしたのではないでしょうか。

鳥山検校、花の井(5代目瀬川)を身請けする

1775年安永4年、鳥山瀬川事件が起きます。

鳥山瀬川事件とは

鳥山瀬川事件とは、鳥山検校が、吉原の遊郭、松葉屋の花の井(5代目瀬川)を身請けしたことをさしています。
当時、金持ちが遊郭の女性を見受けするのはそう珍しいことではありませんでした。
身受けの金額は下級ランクの遊女の相場は平均40両。現代の価値で約200万円から400万円くらい。
それでは鳥山検校が5代目瀬川を見受けした金額はいくらでしょうか。
なんと1400両。現在の価値で、7000万円から1億4000万円ですね。

いくら鳥山検校がお金持ちだからといって、この金額は目ん玉が飛び出るほど異常な気がします。

この破格の身請けが、江戸中で話題となり鳥山瀬川事件と呼ばれるようになりました。

鳥山検校、江戸を追放される

鳥山瀬川事件後も、高利貸しを続けていた鳥山検校ですが、特権を乱用し、やりすぎました!
高利貸しの取り立ては、ますますひどくなり、返済が滞ると押しかけていき大声で騒ぎ立てるなどし、これが原因で武士が出奔したり、恥じて腹を切るなどというような状況が起こるようになりました。
随筆家、武容院士が書いた世事見聞録(1816年)のなかで、官金の取り立ては「強欲非道」とまで書いています。
鳥山検校は、あまりにもむごい取り立てを行ったため、1778年安永7年に、他の検校たちと共に、江戸幕府に処罰されてしまいました。
鳥山検校は全財産を没収され江戸から追放されてしまいました。

徳川綱吉が盲人を保護してくれた儒学や仏教の教えの心があれば、よかったのかも知れません。

明治維新になると、盲人に対する制度的優遇措置は改められることになり、盲人の官職は廃止され、検校を頂点とした階層支配機構は消滅しました。

花の井(5代目瀬川)を身請けした鳥山検校のまとめ

・鳥山検校の検校とは、盲人の最高位のことである。
・盲人の同業者組合には階層があり、昇給するには高額のお金が必要であった。
平曲(平家琵琶)の演奏や、地歌・箏曲の演奏、鍼灸や按摩などの医療行為など、検校の独占的な行為として、認められていた。
・高利貸しが認められ、税制も優遇を得ていた。
・鳥山瀬川事件で、超高額で花の井(5代目瀬川)を身請けし、江戸中の話題になった。
・非常な高利貸しや取り立てをして幕府から罰せられ、江戸を追放された。 
鳥山検校は、そんなに良い人とは思えない内容が多かったように思いますが、花の井は鳥山検校のどこに惹かれたのでしょう。
相手はどんな人であれ、吉原から出られて、しかも高額で身請けされるということが、誇りだったもかもしれませんね。
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大河ドラマが好きなアラフィフのブロガーです。
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